
今年初めに生成AIで自分の思考について、自己分析含め、色々考察もやり、データが揃って書いた記事が「統合型シンキングの本質:私・自分の思考プロセス・スタイルとは?」 となっているのですが、それを書いている時あたりに、自分の文体とは?一体どんな表現方法や書き方が自分らしさ、私らしさなのかというところに着目しはじめました。
AIにルールを渡して書くなど試行錯誤
実際に記事を書くとなった時、ほとんどの時は、どんなことを書きたいか何をゴールにするか、最初の文節は?みたいなところ、つまりは全体の構成を言語化し、その上でAIに対して、さらにDeep Researchを依頼して、コンテクストの多い資料を作成してもらい、それをベースに、大まかな見出しなどを決めた上で、「統合型シンキングの本質:私・自分の思考プロセス・スタイルとは?」にある思考をベースとした認知スタイルプロファイル、どのように考えているかというルールのレンズを通して、ひとまずAIに文章を作成させるようにしています。
その後、自分がこれは書かないな、やったことがないなというところは添削。もし添削どころではない時は、そう、添削どころではないと考えた時には、何を書くかが明確なので自分で書きはじめてしまいます。
AIが文章を書くと、本当にフォーマットに沿った文体と強固な論理構造、そして、適度な文節で区切った、綺麗な文章が出来上がる。しかし、私が書くとそうはならず、コンテクスト、粒度が深く長いのが私なので、A to B to C to Dという長さの文章がしばしば出てきてしまいます。
書いている時に大事にしていること
私はできるだけ、読み手が自分事にできそうなことは、そうイメージがつきやすいよう意識して書くようにしています。その意識と言っていることは、よくわからない何かを比喩したものではなく、実体験をベースとした事実や経緯をわかる形で文章にすることを大事にしています。
そうすることで、その中に秘められた思いなどは置いておいて、何があったかは読み手が理解することができる状態の文章が出来上がります。
それと合わせて、コンテクストの中にや読むことで結果的に理解できてしまうであろう、深いメタファを忍ばせるようにして、さらに重みを持った文章にしていくときもあります。
なぜ自分で結局書くか?という問い、
今年前半は、違和感のあまりない文章を自動で作ることを本気で試行錯誤していたのですが、半ばあたりから、AIが書く文章の、主語となる意図(=発露)とは・・・と逆算していくと、依頼している質問内容そのものになってしまっていることに気づきはじめました。
それ自体は回避できる手法があるものの、結局、どんなに文体をルールなどで綺麗に自分らしいものにできても、発露までは今のAIには理解されていない、というか発露を理解する必要なく文章ができてしまうのがAIであるということで、自分で文頭から、発露を考えながら、そこに軸を置きながら、書くようになりました。
その上で、発露がぶれない範疇でAIが文章を書くこともあるものの、それは自分が直す必要がない精度のアウトプットがある、もしくは自分が書く時よりも精度が求められる内容に絞られていきました。
これらについては、「AIの限界は、実は使っている自分の限界だった」あたりで詳しく書いています。
AIを通じて、得られた書くことについてのこととは
ただ、文章を仕上げるだけであれば、正直AIの方が論理的で構造が綺麗なものは書ける。ところが、それを長文、何ページにも及ぶものへとなると、この人は一体何が言いたくてこれを書いているのか?の発露はやはりAIには任せられず、人が介在する必要があり、もっといえば、複数の人間が関われば、ひとりであってもぶれていれば、結果としてその発露も存在するが複数、もしくは焦点が曖昧な状態で文章ができあがってしまいます。
私の場合は、意志というか、結局何を起点として何を誰に伝えたいのかを明瞭にできた時、文字にするので、発露がぶれないことが多いことをAIが教えてくれたことが、得られた大きな発見かもしれません。
この記事は「言葉を読ませる、意味を読ませる、そしてその意味を読ませるところにミルフィーユのような階層があることに気づけるコンテクストが今はいいのかな・・・」ところで、どうやって書いてましたっけ?の答えです。
三宅香帆さんの記事「軽い入り口、重たい中身、の順番でつくりだす時代?」もぜひ。
この記事はPOSEIDON65で書きました。
